稼ぐ力をつけないと生き残れないコロナ禍

新型コロナウイルスが今日も猛威を振るっています。

新規感染者数も一週間ほど前からピークアウトして下がり始めては

いますがまだまだ予断を許さない状況です。

このコロナ禍で国はリモートの推進をしていますが、飲食店やホテルで働く人にとってはリモートじゃ働けないので

そんなの関係ない!!

って気持ちだと思います。

まあそれを補うために国はやれGOTOトラベルやらGOTOイートやらの政策を実行したのですが、ホテルで働く人のTwitterを見ればこのGOTOトラベル観光庁の直属の事務局はパンクしていたようですし、感染状況によってコロコロキャンペーンを止めたり、動かしたりと現場は常に混乱していたようです。

このコロナ禍国内をみてもかたやリモートで自宅でのんびり働く人もいれば、飲食やホテルでお客様が来ない、来ないと悩んでいる人、路頭に迷っている人いろいろいるかと思います。現在の日本におけるこの対照的な状況を見て正直何か格差を感じてしまいます。

自分もリモートで働ける人を羨ましい、悔しいと思っていました。しかしちょっと自分を振り返ってみるとそれってリモートでも働けるスキルや技術を今まで身につけていなかったことに気づかされました。

残酷な言い方ですが、今コロナ禍で路頭に迷っているホテルや飲食店の業務って環境に依存しなきゃ集客出来ない業種です。この環境に依存しなきゃ売り上げ、利益が出ない業種っ自分も働いていましたが、偏見かもしれないですけど専門的なスキルや技術が低いのを環境でカバーしていただけだったのかもしれません。

例えば飲食業なら料理を作るのには専門的な知識が必要ですが、例えば配膳。お客様に料理を運ぶ、右から左に料理を移動する、注文を受けるのに専門的な知識とかいらないですし、小学生でも出来るかと思います。

あとホテル。宿泊業なら現在インターネットで入ってきた予約を専用のクラウドで一元的に管理していますし、チェックインもホテルによっては自動チェックインで人員が全くいらない状況です。


この二つの事例に共通して言えるのはそれほど個人に高いスキルや能力が必要じゃなくそれを環境に依存して集客なり、売り上げを上げていたってことだと思うのです。それがこのコロナ禍でその環境が壊されてしまいました。

ある時メンターの方にコロナの影響ってネットビジネスであるのかって聞いてみましたが、影響は全くなくむしろリモートの推進で以前よりも売り上げが上がっているようです。

さきほど書いたようにホテルや飲食、その他サービス業など環境に依存して集客、売り上げを出してきた業種はこのコロナ禍が終息しない限り前のように売り上げを出すことは出来ないです。

また厳しい考え方かもしれませんが、コロナ終息後のアフターコロナの世界では日本だけではなく世界中の人がホテルや飲食業、サービス業の専門性の低さ、弱さに気がついてその職種そのもの価値がコロナ前よりも下がっているような気がしています。

今このコロナ禍でこれらの業種に従事している人達に自分は一からネットビジネス、コンテンツビジネスを教えてスキルを身につけてそのスキルでこのコロナ禍を生きていく術にしてほしいと思っています。見通せないコロナ禍で思い切って新しいスキルや知識をみにつけ新しい一歩を踏み出す勇気が日本中いや世界中の人も求められているのかもしれません

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。ご意見、ご感想お待ちしています。

また次回の投稿でお会いしましょう。

仕事に感謝できるかどうか

毎日Twitterでホテルで働いている人のツイートを多く見ます。現在コロナ禍におけるホテルは国のGOTOトラベルキャンペーンの二転三転する変更でその対応に不満や愚痴ばかりのツイートも多く見ます。それと同時にこのコロナ禍で勤めていたホテルが倒産して再就職に苦労されている方のツイートも見ていました。この二つのツイートを見ていて思い出した言葉が

一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る

――武田信玄(戦国大名)

と言う言葉です。まあどのホテルに限らずどの職場でも一生懸命やっても理不尽なこともありますし知恵が出なくて悩むこともあるのでついつい愚痴や不満を吐くこともあります。それでも愚痴や不満を吐きながらの仕事でも明日この仕事が倒産やリストラでなくなったらそれまでの愚痴や不満は意味があるのでしょうか?例えば愚痴や不満を吐きながら仕事をしている人は失業したらこの愚痴や不満からは解放され喜ぶことができるでしょうか?いや自分の能力はこんなものじゃないからきっとすぐ再就職出来ると思っている人は別にして(そんな人はすぐ辞めると思いますが)人によってはかなり再就職に苦労する人もいるかと思います。

自分は職場で愚痴や不満の気持ちが募った場合、今一度今自分の置かれた立場や処遇にどれだけ感謝出来るかと自分を見つめなおすことにしています。感謝出来ないということは傲慢になっていると思うんですね。でも根拠のない傲慢は周りの理解を得ることは出来ないと思います。愚痴や不満を吐くことでストレスが解消され明日への仕事のモチベーションも上がることもあるかと思います。しかし愚痴や不満を吐き続けて仕事を続けてもその仕事に対しての成長はないかと思います。今の自分の仕事に感謝出来るかどうか自分の能力やモチベーションを客観的に見ることが出来るか、それが出来なければずっと愚痴や不満を吐きながらの仕事から抜け出すことが難しいと思います。

自分へのご褒美という言葉は嫌い

GOTOトラベル、GOTOイートで多くの人が旅行やグルメを楽しんでいる記事をよく見にするようになりましたが、その中でよく見かける言葉に

「自分へのご褒美」

という言葉があります。うーん実はこの言葉個人的にはあまり好きではありません・・むしろ嫌いかもしれません。というのは言葉の使い方が間違っているんじゃないかと思うんですね。そもそも「ご褒美」とは

1 ほめて与える金品。褒賞。「褒美をとらせる」

2 ほめること。褒賞。

です。と言うことは自分へのご褒美は「自分で自分を褒める」ということになります。

これってどうなんでしょう??この言葉を聞いて今年亡くなられた野村克也さんの言葉を思い出しました。

人間は自己愛で生きている。誰しも自分がいちばんかわいい。だから自分に対する評価はどうしても甘くなる。

またこうも言っています。

その人間の価値や存在感は、他人が決めるのである。人間は人の評価で生きている。自分の評価より、他人が下した評価の方が正しいのである

つまり自分で自分を評価するってことは出来ない、価値がないってことだと思うのです。そして褒めることもできない、褒める価値もないってことなんですよね。それに対してのご褒美なども無意味で、真の意味のご褒美は他人の評価から頂いたもので自分で与えるものはご褒美とは言わないと思います。自分で自分を褒めることは出来ないので、それをするなら自分を客観視することが出来ていないか足りないんじゃないかと感じます。

アトランタオリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した有森裕子さんが

初めて自分で自分を褒めたい

と言いました。有森さんクラスでもはじめてというくらい自分で自分を褒めることはないということなのです。自分が下した評価に意味はなくそれに対しての褒美なども無意味だと感じますし、もっと自分を客観視できる人間になりたいものです。

教えを乞うことそのものが甘いと感じてしまう。

bBearさんによる写真ACからの写真

毎日ネットで様々なセミナーや講座や研修の案内を見ます。四千円か五千円の講演会のチケットもあれば、二十万、三十万はたまた四十万のセミナーや研修会があります。話し方研修会、ライティング講座、カメラ講座、ホテルや旅館や専門の研修施設で泊まり込みの研修数えきれないほどあり、自分も受講したりもしました。しかしここ最近その研修やセミナーに懐疑的になってしまっています。と言うのも受講してそれがちゃんと客観的に見て自分の実力というかスキルアップになっているのか分からないことです。ただの自分の自己満足になっていないか、モチベーションアップにはなったけどしっかり結果に反映されているか評価が出来ないような気がしてしまいます。

プログラミングや先日行ってきた職業訓練校での溶接やCAD等の技術は教えてもらって初めて身につく技術ですが、自分は何かやる気とかモチベーションを支えるような研修に何十万を出すのは理解が進まなくなっています。これをすれば精神的に強くなってビジネスに役に立つ、管理職として成長できるとかじゃないような気がしてしまうのです。

過激な意見かもしれませんが、いるSNSでよく中小企業の経営者の方が色々なセミナーに参加して講師にのめり込んでいる見ることがあります。その姿を見る度に思ってしまうのは教えを乞い、何十万円もの高いセミナー代金を払って泊まり込みで合宿して講師に叱られる、怒鳴られるそのものが甘いんじゃないかと思い、お金を払って教えてもらうそのものが甘えのような気がしてしまうのです。個人的には自分がそのような教えを乞うことばかりしている経営者の従業員であったらその姿って何か滑稽というか威厳がないように思います。

自分は今何十万円もの高いセミナー代金も払う余裕もないし払う気にもなっていません。それよりも仕事の中で自分で経験して失敗して学んでいる人の方をセミナー等に熱中している人よりも尊敬します。それは実際過去の名だたる経営者の方々は誰かに教えを乞うて会社を大きくしたわけじゃなく自分が色々な経験の中で身に着け学び仕事に生かしてきたからだと思うのです。すぐセミナーや高い受講代金の研修に走るのってすぐ結果や答えを求めすぎような気がしてしまうです。セミナーや研修が全て悪いとはいいませんが、それそのものに依存してしまうのは何か違うような気がします。信じることと疑うことは五分五分でいいのです。高いセミナーや研修に飛びつく前に自分の今の状況の中で何か学ぶことができないか考えることが重要じゃないかと思ってしまいます。

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コロナ禍で強い仕事、弱い仕事

68designさんによる写真ACからの写真

一昨日ポリテクセンター石川に行ってきたのですが、それ以前このコロナ禍になって仕事の価値について考える機会が増えました。考えてみた事を書いてみようと思います。

お客様に動いてもらって成立する仕事は弱い。

正直このコロナ禍で自分の仕事の宿泊業が休業になって家でずっとテレビを見ている日々でした。テレビではリモートで仕事をするビジネスマンのニュースを見て自分の能力と言うかスキルのなさを痛感しました。あとどのような仕事がコロナに強いか弱いか考えるようになりました。その中で当たり前ですが接客などはお客様が動いて初めて仕事と成立する仕事はやはり弱いです。この外出自粛の中で小売りや自分の宿泊業はお客様が動いてくれないとお金、売り上げが出ません。集客の為のネットなりのアクションもこのコロナ禍で外出自粛になり、腰砕けになっている感があります。

環境に依存プラス単純作業では生き残れない。

あとお客様が動いてくれないと売り上げが作れないと書きましたが、動いてもらうのはお客様が来たいと思う環境がないと来てくれません。いい景色、美味しい食べ物、そういう環境があるから観光地になるし、全国からお客様が来ます。この環境があるからホテルが建ち、旅行するお客様が宿泊して初めて宿泊業、観光業の売り上げが成立するのです。このコロナ禍でこの環境が壊された為、この環境に依存してきた業種は今厳しい状況にあります。

今まで以上に個々の能力や知識が重要になる。

コロナ禍で強い仕事と感じたのは環境に依存せず自分の能力や知識を発信している仕事だと感じました。それをネットなり、SNSで発信する仕事です。自分が思っているのはお客様が動いて初めて仕事と成立するサービス業や小売りはコロナ禍の外出制限でワクチンが出来ない限り厳しい状況が続くと思います。宿泊業、観光業も然りです。これからの仕事はお客様になるべく動いてもらわず、ネットなどでお客様に有益な情報を提供する仕事が強いなるのだろうと思います。もう飲食、サービス、小売りはコロナが終息しない限り稼げないと思います。専門的な知識やスキルを身に着けることがコロナ前よりもずっと重要になったように思います。

金沢おでんの真の主役は?

「金沢おでんと言えばカニ面だよね」

そんな言葉を観光客から何度も聞く機会がある。自分はこの言葉に違和感を覚える。と言うのも自分が今まで家庭で食べていたおでんには一度もカニ面が入っていたことはないのである。そもそもカニ面に使うズワイガニの雌香箱カニはズワイガニでも食べられる季節が短く旬の物が食べられるのはせいぜい二か月弱くらいしかないのである。自分の家で香箱ガニが手に入った時はおでんにカニ面で入れるなどと言う発想はなく茹でてそのまま食べるのが普通の食べ方である。おでんの具材で入れた事は一度もない。

 そもそもカニ面は石川、金沢なりの家庭のおでんには高すぎるのである。と言うのも香箱ガニのカニ面を金沢のおでん屋さんで食べようと思ったら千円から千五百円ほどかかるので個人的な感想としておでんの具材の価格帯ではない。それを金沢のおでんのエースに担ぎ上げてしまうことに甚だ疑問すら覚えてしまう。

 県外の人達には金沢の家庭のおでんには必ずカニ面が入っていると勘違いしている人もいるかと思うが、それはおそらく誤解であり、家庭のおでんには余程裕福な家庭じゃないと入っていないと思ってしまう。普通ならそのまま茹でて食べるのではないか。カニ面は金沢の家庭のおでんの具材ではない。カニ面が食べられるのはおでん屋さんだけである。今カニ面が金沢おでんのシンボルのような位置づけにはあまり理解が進まない。

 自分が考えるにはカニ面は金沢のおでん屋さんで生み出されておでん屋さんなりのカニ面の調理方法、食べ方なのである。要するにおでんの具材としてのカニ面ではなく、香箱ガニをおでんに入れた時のおでん屋さんなりの調理方法なんだろうと考えてしまう。言わば最初から香箱ガニカニ面はおでん全体よりも高価な食材であり、おでんがカニ面に合わせるイメージだろうか。

 自分が思うに金沢おでんの真の主役は大根と麩であると思う。大根に関しては金沢には古くから栽培されている野菜が十五種類ありその中に源助大根と言う大根がある。この源助大根柔らかいが煮崩れしない肉質と甘みが特徴でおでんには最適で金沢の家庭のおでんは大抵源助大根である。大根は全国どこでもおでんの主役みたいな存在でこのおでんに最適な大根があったから金沢でおでんを食べる文化が発達したのではないかと思ってしまう。

 もうひとつ麩は金沢には車麩と言う昔から伝わる麩がありその麩の配分は石川独特のものようで小麦から取り出した小麦たん白(グルテン)を長い棒に巻いて直火で焼きその上に再びグルテンを巻いて焼くことを二回繰り返した焼麩でこの車輪のような形状の場合おでんの出汁が染み込みやすくおでんには最適の具材になる。

 この大根と麩の二つのおでんの具材は値段が庶民的で手に入りやすく大抵の金沢の家庭のおでんには入っている。金沢でおでんを食べる文化が発達したのは源助大根や、車麩と言った庶民的な食べ物の美味しさのレベルがおでんに適していたからだろうと思う。家庭で食べる文化があってこそのおでん屋さんが盛んになるベースになり今の金沢おでんにつながったのだろうと感じるのだ。

 昨今金沢を取り上げるテレビなり雑誌なりで金沢おでんを取りあげる時必ずと言っていいほどカニ面ばかりが脚光を浴びるが、個人的には香箱ガニ、カニ面は最初からスターであっておでんじゃなくても十分食材として価値がある。カニ面がおでんに合わせているのではなくおでんがカニ面に合わせているのだろうと感じるのである。香箱カニはおでんの具材にしなくても普通に茹でて食べても普通においしい。家庭の目からすればカニ面は贅沢な香箱ガニの食べ方なのだろうと感じる。

 その一方源助大根と麩は昔から金沢の家庭のおでんで食べられており、金沢市民にもなじみ深い。大根は全国どこのおでんでも入っており、大抵の人はおでんを食べる時大根から食べるだろうと思う。金沢おでんのポイントの高さはこの源助大根のおでんに対する適応能力の高さにあり、それを金沢おでんを支える重要なベースになっていると感じる。車麩もそうだ。金沢の伝統的な製法で作られた麩だからこそおでんの出汁が染み込みやすくおでんには最適の具材になる。要に金沢おでんの力とはカニ面だけではない。おでんに最適な源助大根が生まれた風土、伝統的な製法で作られた麩がおでんに最適だったからこそ金沢でおでんが盛んになったルーツになったと思えるのである。

 もし県外の方が金沢に来る機会があり金沢で名物のおでんを食べようと思っている人がいるならカニ面ばかり注目しなくてもいいのである。先日金沢市街を歩いていたらカニ面が売り切れていたと落胆していた観光客を見かけた。それはそれで残念かもしれないがそんなに落ち込むことではない。大根と車麩を食べても十分金沢おでんを味わえるし、それが本来の金沢おでんの姿なのだろうと思うのだ。カニ面だけが金沢おでんではない。これは全国どこでも言えるのだが地元の普通の食文化に触れることも観光の一つの醍醐味と言えるだろう。

新しい政治

https://www.photo-ac.com/main/detail/2003609?title=%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82(1)&searchId=52108063

今日安倍内閣が総辞職して菅新総理が誕生しました。安倍さん七年八か月お疲れさまでした。賛否両論ありましたが歴代最長の内閣でした。この内閣が八年近くも続いたのはやはり野党のだらしなさだったと思います。この八年あまりの間六度くらい国政選挙がありましたが、一度も与党自民党に勝てませんでした。民主党政権以降野党はどの方向性に国民を導ければいいのかまるで分かってないような気がしています。何度もくっついたり、離れたり、小池さんについていったり・・去年の参議院選挙に至っては出来たばかりのれいわ新選組にイニシアティブを握られているようなイメージさえ受けました。今回も新しい立憲民主党や国民民主党がうまれて離れていたものがまたくっついた印象が拭えません。野党は党勢を拡大したいなら今度こそ挙党体制をしっかりつくらないといつまでたっても与党自民党に一矢報いることができないと思います。それプラス自民党に代わる新しい政治の形を具体的に、現実的に有権者に訴える事が出来るような体制づくりが求められているような気がします。その道筋を作らなれば野党の存在意義が失われると思っています。多様性を認める社会を実現するなら今度こそ組織は腰を落ち着ける時です。

生活の場を観光地にした金沢

https://www.photo-ac.com/profile/2444042

まずはこちらをご覧ください。

https://news.livedoor.com/article/detail/10313466/

この「リピートされない観光地、金沢」という記事が書かれたのは五年前の北陸新幹線金沢開業直後の記事でしたが、それから五年経って金沢は観光地として成熟したのか今でもちょっと分かりません。

 と言うのも記事に出てくる北鉄のバスや多分飲食店は片町や近江町市場なのかもしれませんが、こちらのバスや飲食店は元々は市民の生活の場だったからです。

 五年前の記事とは言え北鉄のバスは今でも金沢で唯一の路線バスで、市民の生活の足の一部であり、その料金の支払い方法なども金沢の日常に溶け込んでいるものです。  ですから正直な話観光客が観光の為に使うのには向いていないし、バスの運転手もその意識で接客しているわけではないと思うのです。 もし県外の方が観光でバスを利用したい場合はなるべく城下まち金沢周遊バスを利用すべきです。普通の路線バスは観光客向けにシフトしているわけではなく、普段の市民の足のような位置づけが運転手、乗客にも染みついているわけでこの記事のように嫌な思いをする可能性があります。

 記事の中にもあった何故市民がバスの中で困っている観光客を助けないかは「このバスは地元民のもので、観光客のものではない」という考え方が態度に出ているのかもしれません。観光客なら観光客向けのバスを使え、使ってほしいということなのでしょう。

 こんな金沢に観光客から悪い評判がついてしまう原因のひとつにここ十年くらいで金沢は生活の場を一気に観光地化したことにあります。 元々近江町市場は市民の夕食の食材探しの場、香林坊や武蔵が辻の百貨店は週末の県内の家族連れの買い物や食事の場、片町は仕事を終えた地元のサラリーマンが夜呑んだり、接待をする場所だったのです。それが五年前の北陸新幹線開業以降一気に観光客向けのものを売り出すようになったのです。おでん屋さんが多いというわけで突然「金沢おでん」という言葉が出てきたり、カニ面がやたら注目されたり、それまであった市民の普段の食べ物が名物化しました。ちなみに今観光客が行列をなしているおでん屋さんも元々は市民になじみのある歴史のあるおでん屋という位置づけだったのです。

 自分の個人的な感想から言えば25年くらい前は金沢の観光地と言えばせいぜい兼六園くらいで県外からの観光客は金沢で兼六園周辺を見てその後和倉か加賀温泉郷に行くパターンだったのですが、新幹線の開業以降は繁華街や町の至る所に観光客を見るようになりました。特に変わったのはやはり金沢駅です。自分が学校に通うのに使っていた金沢駅は地元住民の集う場所でしたが、今では完全に観光客のものになっています。

 これから金沢が観光客により受け入れられるには生活の場と観光地の両立が重要になってくると思います。それプラスこのコロナ禍により感染防止の徹底で観光と市民生活の共存と理解が求められています。